ペットを飼う意味
子どもの頃、昆虫をよく捕まえて虫かごに入れて飼っていました。
犬や猫は飼ったことはありません。
大人になって子どもができて、
子どもが燕やスズメを拾ってきたことや猫を連れて帰ってきたこと、
小学校卒業のときにクラスで飼っていた亀を連れて帰ってきたことetcありましたが、
犬や猫、彼らの一生涯を共にした経験はありません。
しかし家にいたことが何度かあります。
とはいえ飼っていた(保護していたに近い?)時間はそんなに長くはなく、終末に近かったかもしれません。
なので悲しいおもいはその数だけ経験しました。
だからわざわざペットを買って飼おうという氣にはなれないのかもしれません。
死んだときの悲しさが嫌だから。
あとは、ペットを飼うということは、時間も使うしそれは自分最優先ではないということがあるともいえるわけです。
それに直面しないために飼うことを避けています。
年をとったら飼うかもしれません。
そんな僕がちょっと飼ってもいいかなとおもうようになっていたりします(飼わないけども)。
ちょっと怪しい話になるかもしれませんが、ペットの感じるゾーンをまた感じられる時間を創りたいとおもったりするからです。
・・どういうこと?
赤ん坊や小さな子どもがペットとびっくりするくらい仲良くしていたりコミュニケーションをとっているのはみたことがありませんか?
・・あれです(笑)
ペットは人間よりも量子波を感じやすいそうです。
言葉を知らない赤ん坊や子どもも目に見えない世界をみています。
成長し大人になると目に見える現実の世界が中心になるのでそのへんのことを感じにくくなるのが一般的です。
だからその感覚を取り戻すこともひとつの意味です。
他にも先に失う悲しみのことを書きましたが、動物にたちにとっては「死」というのは生命を全うするという仕事をやり遂げたということでもあるそうです。だからそれは悲しむことではなく祝福することなんだと。だから気持ちよく送り出してあげればいいそうです。
そんな簡単に気持ちを整理できないかもしれませんが、共に過ごした時間は一緒でなければ味わえない経験や感覚、どうぶつたちの愛情深さも感じられる。
僕たち自身も大きく成長することができるのかもしれません。
こんなことをおもうと犬や猫、他どうぶつたちと暮らす生活もいいなーとおもうわけです。
どうぶつは僕たちと同じ言語では喋ってくれません。
感情もあるだろうし何かを訴えていること、伝えてくれていることはあるのに。
終末の近い猫、我が家で息を引き取った亀、彼らを病院に連れていくとき当時は
ただ近所にいくことしかできなかった。電話をして受入れ先を探した。
当時はまだスマホが普及する前で病院を探す方法がタウンページとかiモードだった。
いまは探せる。
まだできたばかりのサイトのようだけど想いのある人がやっている感じ。